ニシンよもやま話

   

■はじめに

 あなたはニシンにどんなイメージを持っていますか? 「ニシンそば」「ニシン御殿」「石狩挽歌」……。サーモン、マグロ、サバなどスーパーのお魚コーナーの常連に比べてみると、ニシンという魚は私たちにとってあまり身近な存在ではないかもしれません。

 ですが、ニシンとは人類が最も古くから付き合いをもってきた魚であり、人類史はニシンに振り回されてきたと言っても過言ではないほど、我々と深い関わりのある魚なのです。

 

タイセイヨウニシン
 

 そんなニシンは今やすっかり存在感を失ってしまっています。なぜでしょうか?

 理由の一つは、養殖技術・保存技術・加工技術・運搬技術など、魚食文化を支える技術が発達することにより、かつてないほど多様な種類の魚が食卓にのぼるようになったことが挙げられるでしょう。

 さらに現在、ニシンの漁獲量は最盛期に比べて激減しており(海外では、ニシンの卵=数の子を食べる日本人の要因が大きいとも言われています)、大規模な養殖にも成功していないため、かつてのような存在感が失われてしまったのです。ですが、ニシンの美味しさは今もなお少しも失われてはいません。

   

北欧ではしばしばこうしてニシンマリネを漬けているのを見かけます
 

 ここではニシンに関する歴史的なエピソードをいくつかご紹介することで、皆さんにニシンへの関心を深めていただき、我々とニシンとのよりよい未来を築いていければと考えています。そして興味を持っていただけたら、ぜひアクアビットジャパンのニシンをお試し下さい。

■ニシンとキリスト教

 7世紀ごろキリスト教の断食の習慣は、およそ40日間パンと塩と水しか食べられないという厳しいものでした。それがだんだんと変化していき、遅くとも10世紀までには、古代ギリシャの時代にはすでに主流となっていた体液理論に基づいて「魚は食べてもよい」とされるようになっていました。

 

キリスト教で魚のシンボル(イクトゥス)はとても重要なものです
 

   時代が下るにつれて習慣は変化していき、断食をするべき日が増えていきます。1年のおよそ半分程度が断食にあたる日になっていくのに伴って、だんだんと「魚は食べてもいい日」が「魚を食べるべき日」(フィッシュ・デイ)にすり替わっていきます。

 フィッシュ・デイにともなってヨーロッパの広い範囲で発生した膨大な魚の需要を支えたのは、ほとんどがニシン(とタラ)でした。漁獲量・保存性・当時の運送環境などの条件からそれ以外ではあり得なかったのです。

 人々はニシンの保存性を高めつつ、どうやって美味しく食べるかということを考えるようになります。この挑戦は17世紀の中頃にフィッシュ・デイの仕組みがなし崩し的に終わっていくまで、数百年にわたって続きました。これほどに長い間、ヨーロッパの人々はニシンを美味しく食べる方法をずっと考えてきたのです。

 そう、ニシンこそがキリスト教圏の食文化の中心にあるのです。

 

『ニシンを食べる人』17世紀 オランダ
 

■ニシンと北欧バイキング

 

 北欧におけるニシンの歴史について見てみましょう。

 

 北欧の歴史を語るうえで欠かせないのがバイキングです。バイキングといえば遠征先で略奪を繰り返す荒くれ者というイメージがありますが、実際はしたたかな商人としての性格も持っていたことが知られています。

 バイキングの交易活動の範囲は西欧にとどまらず中東アラブにまで広がっていきましたが、そもそも彼らが航海に出たのはニシンやタラの捕獲と漁場の確保が目的だったと考えられています。オークニー諸島(グレートブリテン島の北あたり)にはバイキングがニシンの塩漬けを大量につくり、母国に持ち帰ったり交易品にしたりしていた痕跡が残されています。フィヨルドから出土した10世紀頃のバイキングのものとされる人工遺物を分析すると、その42%はニシンの骨であり、彼らが大量にニシンを消費していたことも分かっています。

     

現代のバイキング
 

 ニシンという魚の大きな特徴に、ピラミッド何個分とも言われる巨大な群れで回遊することと、回遊ルートを気まぐれで(?)変えてしまうということがあります。この回遊ルートの変化によって、人々の運命が左右されてきたのです。

 しばしばバイキング時代の始まりとして語られる西暦793年のリンディスファーン島への略奪は、ニシンがバイキングを呼び寄せた結果とも言えるでしょう。ニシンがその回遊ルートをイングランド東部に定めたことは、その周辺に住む者にとって不幸なことでした。ニシンはバイキングを連れてきて、彼らはニシンをとると同時にイングランド沿岸部に点在していた豊かな修道院を次々に襲撃し略奪していったのです。

   

■バルト海のニシン漁

   

 北欧における集団的なニシン漁がもっとも盛んだったのは、バイキング時代も終わりを告げた12世紀頃のスコーネにおいてだと言われています。現在のスウェーデン南部にあたるスコーネ地方は、当時はデンマークの領地でした。

 

 バルト海の出入り口にあたるエーレ海峡には、かつて8月中旬から10月にかけてニシンの鱗で海が銀色に光っているように見えたという記録が残っています。あまりにたくさんいるので、海中に鉾を立てておくことができるとさえ言われました。

   

海中に鉾を立てている様子
 

 ニシンは塩漬けにされヨーロッパ全土に輸出されていき、当時のデンマークの筆頭商品となりました。デンマークの大きな稼ぎを目の当たりにした周辺国がニシンの恩恵にあずかろうと結束し、商人たちの相互利益を守る仕組みをつくったのが、かの有名なハンザ同盟なのです。2世紀にわたって隆盛を極めたハンザ同盟ですが、15世紀頃にバルト海のニシンが減ってくると、ハンザ同盟もまたその勢いを失っていくのです。  

   

ニシンの塩漬けが入っていた樽
 

 そして16世紀にはニシンの群れはまたもや気まぐれに回遊ルートを変え、今度はオランダに莫大な富をもたらすことになります。オランダはその資金を元手に大国に生まれ変わり、首都アムステルダムは「ニシンの骨の上に建設された」とも言われています。

     

スウェーデンの家庭によくあるSill(ニシン)専用の壺
 

■世界各地のニシン話

 

 ほかにも、ニシンは世界史のあちこちに登場します。

 メイフラワー号に乗って北アメリカ大陸に行ったピルグリム・ファーザーズたちが、ネイティブアメリカンに教わった農法のひとつは、当時「川を歩いて渡れる」ほどたくさんいたニシンを肥料として使うというものでした。

   

ニシンを肥料にするネイティブアメリカンのスクアント

 1652年にはじまる英蘭戦争はニシンの漁獲権をめぐって始まったものとも言われますし、規模の大小はありますがニシンは人類の争いの元になっています。一方で、戦後に起こる食料不足に役立つのもニシンです(なお、15世紀フランスのいわゆる「ニシン戦争」は、ニシンをめぐって起こったものではありません)。

 

英蘭戦争のようす
 

 日本では江戸時代に北海道や秋田でとれたニシンが、身欠きニシンに加工されたうえで北前船にのって西日本にまで広がり、全国の食卓にのぼっていました。ニシン漁で巨大な財産を築く人が現れ、彼らが建てた豪邸は「ニシン御殿」と呼ばれ現在では文化的に保護されています。

   

北海道で保存されているニシン御殿
   

 日本におけるニシンの漁は明治30年(1897年)にピークを迎え、現代的なトロール船などがまったく無い時代にもかかわらず、漁獲量は97万5千トンにものぼりました。

 気まぐれな回遊ルートをとるニシンは、当たれば大量の漁獲が期待できますが、群れが来なかった場合は全く成果があがらない、ギャンブル性が高い魚です。そのためか、世界中のニシン漁に携わる人は同じように「願掛け」をしています。

 バルト海の漁師は、船の上で鮭とウサギの話をするとニシンがいなくなると信じていましたし、イングランドでは不漁で陸に戻った漁師の人形を作り燃やしていました。北海道の江差では「猿」という言葉が「去る」につながるので口にすることは禁止されていて、「山のもの」と言い換えられていました。世界中のニシン漁に関わる人々は、地球の裏側に住んでいても同じようにニシンに祈りを捧げていたのです。

■おわりに

 いろいろなエピソードを紹介してきましたが、まだまだニシンについての話はつきません。

 

長年にわたって人の歴史と共にあった魚、ニシン。そう、ニシンを食べるとき、我々は何千年にもわたって付き合ってきた相棒と再会をしているのです。そして、世界史の1ページを書き加えているのです。

 日々の暮らしのなかで「食べること」の楽しみがぐっと重みを増してきている今日このごろ。ぜひニシンマリネを食べて、人類史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

 

人類の叡智がつまったアクアビットジャパンのニシンマリネ(マスタード味)


《参考図書》
キャシー・ハント(著) 龍 和子(訳)『ニシンの歴史』原書房, 2018年.
越智 敏之(著)『魚で始まる世界史』平凡社, 2014年.
百瀬 宏, 熊野 聰, 村井 誠人 (編)『北欧史』山川出版社, 1998年
今田 光夫(著)『ニシン文化史―幻の鰊・カムイチェップ』共同文化社, 1986年.



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